大悲庵 (だいひあん) 、月待供養塔
新秩父観音札所 33番 上尾市中分 2-276
大悲庵は上尾市中分にある曹洞宗の庵室です。
榎本牧場からの帰りのコースをかっぱ橋から東へ向かうと左側に、中分水辺公園を見下ろす形の高台に位置し、10段ほど階段を上がるとお堂が見えます。西隣は下芝公民館になります。
「上尾市史別編2」によれば、創建年代等は不詳ながら、中分村の三沢善右エ門が寛文年間(1661-1673)に建立したという言い伝えがあるそうです。
新秩父観音札所 33番 (注 ①) で、現在のお堂は昭和56年 (1981) に再建されたものです。
(碑文) ありがたや 大悲のめぐみ 下芝の
露もろともに消ゆる罪科
罪科は 「つみとが」 と読むのでしょうか。「大悲」は仏・菩薩の大慈悲心、また観世音菩薩の別名です。
◆ 敷地内に月待供養塔があります。
「月待供養」 (注 ② ) は 江戸時代末に流行した宗教行事です。この月待供養塔 (注 ③) には「文明十四年三月廿三日」(1482年)の銘があり、二十三夜の月待供養塔で、この種のものとしては比較的早期の、室町時代の供養塔ということになります。
この場所は東も南も谷になって開けており、いかにも月待にふさわしいすね。また大悲庵より200年ほど古いことになります。(参考: 市教育委員会解説板、Wikipedia ほか)
注 ①. 「新秩父観音札所 (足立新秩父三十四ヶ所観音霊場) 」 は弁財村 (現 上尾市 弁財) の井上五郎右衛門の発願で享保8 (1723) 年に設けられ、弁財の昌福寺 を一番札所とし、武州足立郡 (上尾・桶川・伊奈・さいたま市北部) をめぐる霊場で、大悲庵が33番、中分の東栄寺が結びの34番札所です。明治時代の廃仏毀釈令によって廃れ、残念ながら現在は廃寺となった所が10カ所以上に上ります。
注 ②. 月待供養 (月待行事) とは、十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」 と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を払うという宗教行事で、特に普及したのが二十三夜行事だそうです。
文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代末期の文化・文政 (1804~30) のころ全国的に流行。板碑としては埼玉県富士見市の嘉吉元年 (1441年) のものが初見だそうで、この大悲庵のものはけっこう早期のもののようです。
注 ③. 大悲庵の月待供養塔は高さ132cm、幅42cm、厚さ5cmほどの石板で、中央に天蓋、その下には阿弥陀如来を表す 「キリーク」、脇侍の観音菩薩を表す 「サ」、勢至菩薩を表す 「サク」 という梵字が彫ってあるとのことです。これは阿弥陀三尊にあたります。